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「ということで!これから恒例の勉強会の時間となりますが、今日はみんなでちょっとしたゲームをやりませんか?」

 

奥山が何かを企んでいる。

 

「ゲーム?」鮎川が聞く。

 

「僕らもこの二週間、マーケティングをたくさん勉強してきました。そして、今日から遥さんがメンバーに加わってくれることになりました。そこで、お互いの勉強の成果を確かめ合うために、マーケティング質問バトルゲームを行いたいと思います!例えば、僕が『マーケティングの4Pって何だ?』というような感じで質問するので、それに答えてください。答えられなかったら次の人が答える、勝ち抜き戦で進めます。では、さっそく遥さんから行こうかなー、覚悟はいいですかー?」

 

遥は少し間を置いてから、明るい声で返事をした。

 

「はい。何でも質問してください!」

 

奥山がファイティングポーズを取ると、遥も少し遠慮がちに、奥山のマネをして、小さなファイティングポーズを取った。

 

 

二十分が経過した。

 

奥山と遥の質問バトルはまだ続いていた。奥山の質問のすべてに、遥が完全な回答を返し続けたからだ。奥山は用意してきた質問を出し尽くし、抽象的な質問を遥にぶつけ始める。

 

「じゃあさ、じゃあさ、マーケティングで最も重要なことって何?」奥山は挑発的な口調で質問する。

 

「誰に何を売るのかを決めることです。これ以上に重要なことはありません」遥はきっぱりと言い切る。奥山はひるむ。遥の目の輝きは二十分前と、まったく異なっている。

 

遥は黒板に歩み寄り、そこに置いてあったチョークを握ると、黒板に手早く三角形を書いた。それを三層に分けると、上から順に「戦略」「作戦」「戦術」と書き、戦略の文字の下に『誰に何を売るのか?』と書き加えてから、勢いよく下線を引いた。

 

「誰に何を売るのかは大戦略と呼ばれるもので、マーケティングにおける最上位の概念です」遥は言い切る。

 

奥山はおそらく、もっと和やかな雰囲気でこの質問バトルゲームが進行すると思っていたはずだ。インターンとしてやってきた遥が、みんなと早く仲よくなれるように考えてきてくれたのだろう。だが、実際はそんな奥山の思いとは、かけ離れた展開となった。

 

遥は「4P」のような古典的なマーケティング用語はもちろん、最新のマーケティング理論やトレンドまで、完全に、そして、深く理解していた。それだけでなく、その理論の本質を、淀みなく説明することができた。何よりも遥の語るマーケティング理論は圧倒的に分かりやすかった。

 

「なんか……」

 

奥山は口を開いたまま言葉を続けられない。

 

「……すごい」鮎川が言葉を続けた。

 

「つまり、何をするにしても『誰に何を売るのか?』をきちんと決めることが一番大切だってことだよな。そりゃあたしかにちがいねえな」

 

源次郎は腕を組みながら、遥が黒板に書いた三角形の図を見て言った。源次郎の言葉に反応して、遥はさらにヒートアップする。

 

「誰に何を売るのかというマーケティングの最重要課題には、実は完全な答えがあります。それは、『困っている人に、問題解決手段を売る』という答えです。何も困ってもいない人に、何だかよく分からない商品やサービスを売るくらい大変なことはありません!」

 

「なるほど。それもそうですね」岡田は大きく頷いた。

 

遥は、戦略から戦術に向けて太い矢印を書き込み、今度は戦術の部分を大きく囲んだ。さらに喋るスピードが速くなっていく。

 

「一方、戦術とは戦略で決めたことを、お客さまに伝えること。目的は認知の拡大です。例えば、広告宣伝を行うこと。ここで重要なのは、戦略は戦術よりも上位の概念なので、戦略が失敗すれば、戦術では補えないということです。戦術にはコストがかかります。誰に何を売るのかが明確ではないまま、どんなにお金をかけて広告を出しても、どんなに立派なウェブサイトを制作しても、成果は出せません。マーケティングの実質的なリスクは、つまり、金銭的なリスク、時間的なリスクは、ほぼ戦術に集約されているのです。だから、私たちが忘れてはいけないことは――」

 

遥はそこで一呼吸置いた。全員が息を止めた。

 

「戦略なき戦術は、破滅を招くということです!」

 

遥は手の平で黒板の戦略の部分をバンと大きな音を立てて叩いた。チョークの粉が舞い上がった。

 

「おー!」

 

源次郎も、奥山も、鮎川も同時に感嘆の声を上げた。

 

「遥さん、参りました。降参です!」

 

奥山は言った。そこで午前十時のチャイムが鳴った。まるで試合終了のゴングのように。片山鋳造の本社管理棟では一日に何度か小学校のようなチャイムが鳴る。その音を聞いて遥ははっと我に返る。手に持っていたチョークを床に落とすと、両手で自分の頭を抱えてから、すぐに奥山の前に歩み寄り、九十度に頭を下げる。

 

「なんか……大変……申し訳、ございませんでした!」下げた遥の頭はチョークの粉だらけだった。

 

「いや、いや、いや、こちらこそ!遥さんすごい!遥さん最高!」奥山が言う。

 

「遥さんがきてくれて、マーケティング室にも、ようやく一筋の光が見えてきましたね」鮎川がうれしそうに言う。

 

マーケティング室が創設されてから、まず各自がマーケティングの書籍を読んで、学んだことをメンバーと共有する勉強会を始めた。読んだ書籍は、難解な専門書から、漫画で書かれた入門書まで。だが、本を読めば読むほど、勉強会を重ねれば重ねるほど、メンバーはマーケティングのことがよく分からなくなっていった。

 

マーケティングは覚えなくてはならない言葉や理論があまりにも多く、複雑で、難解で、結局、何をすることなのかがさっぱり理解できなくなっていた。

 

「遥さんのマーケティング理論はどうして、そんなに分かりやすいんですか?」奥山が聞く。

 

「はじめにマーケティングピラミッドを教えてもらったからだと思います」

 

「マーケティングピラミッド?何ですかそれ!ぜひ僕らにも教えてください!あの、今度はもう少し優しく……」奥山がおどけて言う。遥は恥ずかしそうな顔をしながら「はい」と頷いた。

 

遥は一度、目を閉じて深呼吸する。頭の中に、祖父から学んだマーケティング理論の講義がよみがえってくる。胸のあたりを小さくポンポンポンと叩いてから、今度はゆっくりと語り始めた。

 

「ビジネスパーソンの中には、マーケティングを複雑で、難解で、覚えることが多すぎると思い込み、理解することをあきらめてしまう人がいます」

 

全員がウンウンと何度も頷く。